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今でも鮮やかに蘇る「純」との思い出

 私がその犬と出会ったのは、小学校の6年生の時でした。3人兄弟の末っ子で、いつも、「弟や妹が欲しいなあ。」と口に出しては、両親を困らせていました。両親にとっては家庭の生活設計上、4人目は無理だったのです。そんなことを理解できなかった私は、お構いなしに、先の言葉を連発していました。

 そんなある日、福岡まで出向いた母が、デパートのペット売り場から一匹の柴犬を購入し、家まで連れてきたのです。当時の我が家には自家用車なるものがなく、福岡から、当時住んでいた佐賀県の伊万里市まで生きている子犬を運ぶのは並大抵のことではなかったと思います。しかし、そんな母の苦労などどこ吹く風、私の目の前に現れた柴犬は、当時話題になっていた「血統書付き」で、「コロ駒号」という名を持ち、凛とした風貌で一発で私のハートを射抜きました。

 さすがに、「コロ駒号」は一般的な名前ではなく、フレンドリーではなかったので、日本犬の雑種ではない純血種という事で「純」と名付けました。純はクレバーな犬で、来客があっても、むやみやたらと吠えることはなく、玄関以外の場所から入ってくる客にのみ、主(あるじ)に知らせるべく吠えました。柴犬は忠実…を地でいくような名犬でした。

 中学校を卒業し、高校に進学する段になると、父親の転勤の都合で伊万里市から県都・佐賀市に引っ越すことになりました。嘘か誠か、「犬は飼い主に付く。猫は家に付く」という話があり、伊万里から佐賀に引っ越すのは特に問題はないと思っていました。引っ越しの車の中で、純が常に車の窓から鼻先を出して、外気を嗅いでいたのを今でも思い出します。佐賀での生活が始まりました。当時は、放し飼いも珍しくはなく、近隣住民の迷惑を考えずに、鎖をつけずに散歩に行っていました。

 そんなある日、事件が起きました。純が行方不明になりました。放していても必ず家に戻っていた純が帰ってこないのです。1日、2日…帰ってきません。人間と違い捜索願も出しづらく、今のように、新聞やコミュニティ誌の「探しています」コーナーなどはなかったので、途方に暮れるしかありませんでした。さらに数日後、誰かに連れていかれたか、途中で車にはねられたか…諦めるしかなく、悲嘆に暮れていたころ、「純が見つかった!」との、電話が入り、家族一同歓喜に包まれました。純がつけていた鑑札から割り出され、飼い主が私たちであることがわかったのです。見つかったのは、佐賀県の武雄市。佐賀から30kmほど離れた場所。かつて住んでいた、伊万里を目指していたのは明らかでした。伊万里での思い出が純にとっては大きかったのだろうと痛感しました。

 純を連れ戻してからは、放し飼いはやめて、きちんとリードをつけて飼いました。当時の犬の食事は、今のように栄養バランスを考えたようなドッグフードではなく、人間の食べる食事の「残飯」がおもで、塩分、糖分など、犬の体にとっては良い食生活とは言えないものでした。高校2年になったころ、純の体調が急激に悪くなっていきました。動物病院に診せると、横文字の長い病名で、寄生虫とか、心臓にも疾患があるので、薬を飲んで少しずつ体調を整えていくという治療方法をとることにしました。薬を飲んだ初日、純はげっそり瘦せているにもかかわらず、元気を取り戻したように見えました。とはいえ、よそに出ていく元気まではないだろうし、鎖をつけておくのはかわいそう…ということで、家の敷地内から出ていかないように門扉を閉めて、放すことにしました。

 ところが、翌日の早朝、あろうことか新聞配達の人が、門扉を閉め忘れていたため、そこから純が外に出てしまいました。今度は、近所近辺の人にもお願いし、病弱であるから遠くまで行かないとの判断で、捜索に加勢してもらうとともに、新聞にも投稿し、純の帰りを待ちました。何日も何日も待ちました。でも、とうとう帰っては来ませんでした。家族は悲しみに包まれました。せめて亡骸でも丁重に葬ってやりたい…との願いも叶えられませんでした。今でも残念でなりません。しかし、我が家にとっての「名犬・純」は残された家族の心の中に、今でも鮮やかに生き続けているのです。